距離感

2019⁄12⁄20(金) 00:00
エチケットとか育ちのマナーなんかについて。

人間それぞれそれまで生きてきた土壌も違えば価値観も違います。
――まぁ それに伴いまして どんな行動に対しても評価基準やらというのはそれぞれ違ってきます。

例えば 今自分の部屋を見回しながらその状態を私は「ちょっと散らかっているな」と形容します。

それに対して 私の母のような相当なきれい好きの人をここの読んだならば
相当な剣幕で「なんだこのカオス空間は」としかりつけてくるでしょう。
――その程度には この空間は何に差し替えてでも整然と保たなければならないレベルなのだと。

この例に限らずいろいろと人としゃべったりしていく中で同じ光景を見ても
誰かは好意的にとらえたとしても 別の人は相当悲観的にとらえることもあります。

その目線に間違いというのはないのでしょうけれども
「同じ風景を見ても違う判断を誰もが下している」という事実を認めなければ
やっぱり人と暮らしていくことなんてできないんだよなぁ、などと。



愚息、という言葉があります。

漢字で「愚かな息子」ともとらえられ 若干へりくだったような場所で
自分の子供を指し示して言う言葉です。

とはいえ 実際にこの言葉を使っている人が皆が皆 本当に自分の子供を
愚かな人間だとさげすんでいるわけではないでしょう――まぁ 展開的に
「しかりつけなければいけない何かをやらかしている」展開は大いにあり得ますが。

というわけで このような感じの面構えだけを見て 「愚息」と呼称されていた子供を
これといっていい理由もなく本気に馬鹿にしたとしたら それを笑って
見逃してくれる「愚息」の言葉を使う親がどれだけいるのでしょうか。

……まぁ、皆無、とまでは口が裂けても言えませんが その結果はたいていが
親子愛を感じるような結果になることが多い……のではないかと思います。

まぁ 自分が言うのなら、身内に言われるのであれば何とか許せるけれども
それより外の人間に特に理由もなく投げつけられたなら
さすがに我慢ならない、という展開、往々にして誰もがあるのではないでしょうか。

しゃべる相手を理不尽に非難することはないか、自分にも悪いところはなかったのか
常日頃から客観的に周りを見る癖をつけたいところです。

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