理想と現実

2018⁄09⁄03(月) 00:00
なんか 昨日書いた内容を改めて見返してみて
自分でどこか「どやぁ……」って妙な気持ち悪さを感じたので「目標と現実」の乖離について。

昨日も書いたように私の理想像は「理解ができる人」。
――昨日は人間関係メインで書いてみたけれども 文化であるとか理論であるとか
この「理解」というものはなかなか便利なもので様々なものに使うことができます。

それに対して「納得」――受け入れること――というのは 例えば学問においても
反証実験してみたり、といった意味で多く利用されるものであります。

さて そんな私ですが例えば人間関係について特出していってみるのであれば
はなはだ残念なことに「それを処理する脳の領域がやたら小さい」ようで
多くの人間を一気に処理することができない……らしい、という経験則を持っています。

ゆえに すでに私のメモリの中では高校生以前のクラスメイトのことなど
――もう、顔も思い出せないような人間というのもかなり存在するというのが正直なところです。

ならば たとえ小さなコミュニティであったとしても その人のことを
より深く理解して親密になっていきたい――というのが最近の私の考え方。

まぁ 他人がそれに「納得」してくれるとも限らないのでなるだけ人を巻き込まない形で
ただし、自分自体はこのような考え方に向かっていこうとするわけですが
まぁ 引っ越してみたりすると果たして 新しい人との出会いやらもありますし
このような傾倒した考えでいいのかどうか、とかしばしば考えさせられるわけで。

逆に 何も「理解しようとしない」人は愚かだと思いますしそうはなりたくないと切に願うところ。
……仮に 「今理解できない」人でも それに「気が付いて」「理解する努力を持つ」ならば
結局「理解できていない」としても美しいものだと思います。

……実際、すべてを「理解する」ことなんて難しいものなんだから 完璧ってのは到底無理。

そんな意味では 何か失敗するたびに「何が悪かったのだろう」という反省を
ある程度しっかりできて 次の行動を考える(結果が伴えばなおのことよいのかもしれませんが)人、
というのは とても尊敬できるかっこいい人だなぁと感じます。

まぁ 仮に自分が「理解できていなかった」としても 自分が「理解できている人」と
相互に意思疎通――互いの「人間を理解している」――人を持っていたならば
あわよくば、解決できることもある、というわけだからそんな意味でも人材ってたからなんでしょうね。

……最近は友人づきあいをはじめとした人間関係もこう思うようになりました。

……逆に自分から何もやらないで同じ価値観を共有してくれるのはせいぜい
同じ家で育った血を分けた家族くらいでしょうし、それに応じて「外が理解できるように変わる勇気」
というのがどうにも必要なのではないか、って思います。 この辺、私の20代の間で継続した目標だったり。

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