「理解すること」

2018⁄09⁄02(日) 00:00
あくまでも私個人の考え方なのですが「理解すること」と「納得すること」は異なります。
――そして 「理解すること」を放棄する人間というのは
どうにも愚かなものなのだろう、と思うのです。

別に その人の考えを一から百まで受け入れない――あえて言うならば
「私が言うことを聞き入れてくれないから」このようなことを言うのではありません。
これは 大きな意味でいえば「納得してもらえた」果ての行動だからです。

とある意見に相対する意見を互いに「理解」したうえで「納得しない」人間が相対した場合
どのようなことが起こりうるのでしょうか。

――あくまでもその他があらゆる意味で理想的な環境下であるならば、
その先では建設的な「議論」が沸き起こることでしょう。
そして 結局意見を一つに集約するような結果にならなかったとしても
その「議論」には相応の意義を持つことでしょう。

といいつつ 人間のコミュニケーションというのは往々にして難しいものであるからして
すべてのことを「理解できる」という人間はごくまれでしょう。

文化の違いであったり育つ家庭の状況であったり。
個人の不得手にも左右されるでしょうし、男女の違いというのもあるでしょう。
……まぁ、個性、というものに大きく影響するわけですね。

そのあたりの違いを認めつつ、相手がどんなことを考えているのか
どんなことを求めていて、それに応えることができるのか。
もしくは 相手に頼ってもよいものなのか。

おそらく 一つの有用な人間関係構築だったりチームの構築だったりといった手順の一つであると
私自身は考えているのですが このあたりをするのにはあらゆる意味で
「相手への理解」というものが大切なのではないかと考えます。

私は「理解すること」への努力を欠かすことなく生きていきたい。
貪欲に「理解すること」への探求心を忘れないようにしたい。 そう考えています。

結果として時には「頭でっかち」な結果になってしまうこともあるのかもしれません。
また、「知りたくなかった」価値観の破壊に遭遇するのかもしれません。
ただ それが相手の個性であるならば、私はそれを忘れないようにしたい。

物事を「理解する」というのは必ずしも「イエスマン」になることではない。
……個性を認め、人とのパイプをつなげていく そんな行為に他ならないのではないか
……なんて、思うんよね。 らしくなく真面目なことを書きたくなった今日この頃。

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